文献の中の広甘藍
広甘藍についての記載 一覧
郷土史関連書籍や農業関連書籍から、広甘藍(ひろかんらん)または甘藍(かんらん=キャベツ)についての記載がある部分を探してみました。
広甘藍またはキャベツについての記載があった書籍
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「廣村」 (P364)第2節 農業(6)蔬菜 「本村新開地の地味は最も蔬菜に適し、加ふるに呉市の発展は之か需要を促せるを以て1・2の篤農者は京都の栽培法を講習し其法を傅へ、その後村に於ても亦各種の良種を求めて村民に分配し、之か改良を促し來りしか、明治39年有志者相圖り、種苗促進園を組織して盦、之か改良発展に従事せり。爾來其産額頓に増加し大正3年には其額9萬圓に及び、呉市に輸出するもののみにても尚6萬圓を超ゆるに至れりと云ふ。」(原文全文記載) |
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「改訂 廣島縣農業教科書 上巻」 第32課 甘藍類 (P48) 「甘藍は十字花科に属し、葱頭と共に西洋蔬菜中最も本邦化したもので、滋養分に冨、諸種の料理に用いられので、近時各地に盛に栽培せられて居る。 甘藍類には、普通甘藍・葉衣甘藍・子持甘藍・花椰菜等の種類がある。其のうち最も普通に栽培せられるものは普通甘藍で、其の品種は多いが、サクセッション・中野早生・豊田早生・サダヤ・野崎早生・廣甘藍等が良い。 甘藍は、冷涼な気候と肥沃な埴壌土を好み、連作を忌む性があるが、大抵の土地に栽培することが出来る。甘藍は、人爲の改良によって結球性を得たものであるから、種子の選択、苗の選別、施肥・管理等に細心の注意を拂って、此の性質の維持を圖らねばならぬ。 」(原文全文記載) |
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「地誌 廣町」 第32課 甘藍類 (P442~) 「新開地一体は干拓地であるため、低地の湿土性が強く、蔬菜類の栽培に適しており、髙畦式の土を盛り、塩分を極力避けるような又、水漬りを避けるような方法がおこなわれているが、塩分は甘藍には大した障りにならず、かえって良好な成績を示しており、広甘藍の名は全国に知られ、遠近の都市に輸送され、又他地域でも「広甘藍」を栽培している現状で有る。 この広甘藍は昭和2年頃から盛んになったもので、それ以前は多少は作られていて、大正2年の記録では六千貫生産しており、反当り一千貫で僅か六反だけの作付けで有った。 この広甘藍の名を揚げるようになった元祖ともいうべき功労者の第一人者に玉木 亥之吉氏(伊之吉の間違い)を揚げて良いだろう。 それ以前に広の蔬菜園芸に功労のある大沢 喜代蔵氏があり、之をついで玉木 伊之吉氏が貢献されたので、氏は甘藍の栽培に就て何とか成功しようと苦心を払い、殆ど広中各迫からの加盟に依る組合を結成し、後この組合によって推されて全国の各地の農業実施状況を視察したが、殊に甘藍に就ても全国で鹿児島県と高知県以外は悉く視察して廻り詳さに研究して帰ったのであり、中でも名古屋近傍の甘藍が優良であったとのことでその種を持ち帰りさえしている。 何うしてそのような旅費を捻出したかというと、例えば東京へ行けば東京市(当時は未だ市であっにた)から奨励金を貰って次の県へ行くという具合に各所で奨励金を得て斯くも大規模な視察旅行が出来たのである。 又その当時から暫次各県から優良な種を集め、採種葡を造って種の増大に努め、県内県外に種子の移出を始め、現在でも同様に頒付しているが、これに対し県当局からも採種葡に対し、二十万円の補助金を下附されており、一躍優良種甘藍の名を高くしたのである。 これは前述の通り、干拓地のため塩分を含んだ新開地の土壌が適応したことと、各農家が自家経営で、すぐ金に替えるようなやり方をしたということが成功の条件であったという。 漸次栽培者も増加し四、五千人にも及び、生産量も二百万貫を越した年もあったといわれている。 現在では生産されている処は全国各地に非常に増加しているが、何処で生産されても通称「広甘藍」として扱われているものが相当にある模様である。 生産量も最盛時代に較べ戦時中の中だるみ状態を通り越して、再び活発な生産が行われてはいるが、何分にも海軍用地として、さらに進駐軍施設用地等莫大な耕地が埋められた以後のことであるだけに減量しており、昭和二十五年には二十万貫余、昭和四十年には五万三千三百四十貫に減っている。 たとえ広町での生産量は年々減っていても、広甘藍は全国的にどこかで年々増産されてゆくであろうし、又その限りに於て我が郷土の先人の残した立派な偉業の一つとして吾人の胸に記憶されることであろう。」 (玉木 伊之吉氏・大島氏口碑広支所書取調回答書類参照) (原文全文記載・赤字は管理人による) |
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「大呉市民史 大正編」 (P610) 「広特産・夏甘藍、駐在藤井技手」の話として、「起源は(明治)37、8年戦役当時より呉市場に球菜移入多きを加えるをみて同村試作。当初移入された種子、サクセッション、米国、北海道、中野種等は何れも結球せず、地質に適する独特の栽培法を案出し中野種を改良せるが今日のもので自然特有の品種となり、殆ど原型を変じて扁平中形となり、1個500匁より1貫200匁に及び長期貯蔵にも堪える非常に結球し易いが一大特徴。販路は大阪、神戸、四国、九州、朝鮮、満州へも、益々発展の機運にあり」とある。(一部抜粋) |
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「呉市史 第6巻」 (P998) 「米と麦が大正期以降にしだいに衰退にむかっていったのに対し蔬菜は年々その生産額を増加させている。 新開地の地味が蔬菜の栽培に適していたこと、呉市という市場をひかえていたことに加えて、篤農家が京都で蔬菜栽培法をまなび、明治39年に有志者により種苗促成園が設置されたことなどが、広村の蔬菜栽培を発展させたものと推測される。 主要蔬菜の生産額の推移を一覧表にした5-20表によると、キャベツとサトイモの発展に特にいちじるしいものがあったようである。 広甘藍(キャベツ)はサクセションを改良して生まれたものであり、『大正初期にして漸く市場に於いて高評を得、之が為栽培農家は増加の一途を辿り、大新開、古新開、弥生新開と約200町歩の栽培まで発展した』と述べられている。*23注 楠務『観光呉地誌』昭和26年 38ページ 生産面の改良と軌を一にして大正3(1914)年には、玉木伊之吉を中心に広村園芸出荷組合が設立され、一層の発展がはかられたという。 こうした一連の努力が奏功し、広甘藍は、呉・広島両市はもとより、東京・大阪をはじめ全国各地、中国東北部にまで出荷されるようになったのであるが、戦時期にいたり、軍事施設や住宅地の拡張のために農地が縮小したり、穀物増産が奨励されたために、生産はまったく振るわなくなってしまった。」(原文全文記載) |
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「呉市制100周年記念版 呉の歴史」 (P188~189) 「呉市域においてもっとも広い農地をもつ広は、村が率先して農事統計の作成、共同苗代などの農事改良を実践し、生産力の拡大につとめた。 こうしたなかで明治期の米、麦にかわって、大正期には蔬菜の生産額が急成長する。 新開地の地味が蔬菜の栽培に適していたこと、呉という市場をひかえていたことに加え、篤農家が京都で蔬菜栽培法を学び、明治39年に有志者により種苗促成園が設置されたことが発展の要因として考えられる。 とくに、甘藍(キャベツ)とサトイモの成長がいちじるしい。」(原文全文記載) |
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「雑誌 農協ひろしま No.472」 (P52~53) 広甘藍の原種は大阪の種苗商から入れ、(サクセションとヴァンダーゴーの種と記載)導入は明治37~38年頃と記載あり。 大正初期に高評を得て栽培面積が増加し、「広甘藍」と命名されるのは昭和に入ってからで、ピークは大正末期から昭和初期と記載されている。 (記事の概要を管理人がまとめたもの) |
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「雑誌 廣島農業 第9巻 第1號」 (P16) 「昭和31月(原文ママ) 11月20日印刷 昭和31年1月1日発行」と記載がある。 「蔬菜特産地の紹介 広甘藍の栽培[2]広農試可部園芸支場 沖森 当 (まえがき) 本県の夏播き冬採甘藍として古くからその名を知られている広甘藍は広町一帯に栽培されているが、戦前呉市は軍事上要衡の地として耕地は次第に接収せられ、又一方主食増産の至上命令のため生産は全く振わず終戦時には栽培面積は僅か3町歩内外にとどまり、往時天下に有名を馳せた「広甘藍」も只地元出荷にとどまり、その面影もなくなった。 昭和25年再び出荷組合が設立され、また県の方針としても今後特産蔬菜の生産を盛り返して県外出荷を目論んでいるが、狭少の耕地を以てしてはなかなか至難なことである。 併し往年の夢を呼び戻そうとして懸命の努力を続け、本年度を容やく40町歩にまで回復している。 最盛時の昭和12年頃の栽培面積は約70町歩におよび等産額も70万貫に達し、荷造りはすべて空俵につめ1俵8貫目の梱包とし、殆んど貨車輸送で15トン車に220俵内外を積載し180~200車を1月から3月まで出荷していた。 育成経過 最初呉市広町で「キャベツ」が栽培されたのは明治38年頃で古老の言伝えによれば、現在の広甘藍は大正初期玉木伊之吉氏を中心に5~7名の熱心な栽培者が集まり、サクセッション及びバンダーゴから淘汰改良したもので「広カンラン」として命名をみた頃には既に栽培の自信は得られ、栽培判別も著しく増加し昭和6年には広甘藍出荷組合を設立し(組合員440~450名)県外出荷を目指して華やかにスタートした。 特性 前記のように「サクセッション」の淘汰と言われるが現在の広甘藍を見ると全々そんな形態は示さず、寧ろアーリー・サンマーの系統と言った方が良いと考える。葉は濃緑で…(以下略)」 (記事一部抜粋) |
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「雑誌 広島農業 第14巻 第11号」 (P50) カーネーション作り日本一の園芸家も、蔬菜培の先駆者として玉木伊之吉の指導を受けたとの記載あり。 同時に観音町の蔬菜倍の先駆者山下 豊次郎の記載もあり。 (記事の概要を管理人がまとめたもの) |
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「野菜園芸大百科 第2版 キャベツ、ハナヤサイ、ブロッコリー」 (P13~20、67~83) キャベツは明治初年に欧米から導入(日本に)され、大正から昭和初期にかけて民間育成家の努力により、わが国独特の生態を有する品種が選抜淘汰され、昭和にはいってから完全に日本化した歴史の新しい作物の一つである、との記載あり。 広甘藍の固定種の育成系統図の記載あり。( アーリーサマーとパンダーゴンを掛け合わせた「泉州在来」の種から派生した系統図の表記あり。) ※上記記載のサクセションはアーリーサマーから分系育成した品種で、明治30年代ころに導入され分系淘汰された、とある。 「広甘藍は、愛知夏蒔群に属した品種で広夏蒔(広島県、玉木伊之吉育成)」と記載あり。 (記事の概要を管理人がまとめたもの。以下に、P72の「(6)愛知夏蒔群」という段を原文全文記載する) 「アーリー・サマーやパンダゴーを基本種として、分系土着品種が夏まき用品種として数多く作出され、これらの系統が夏まき品種の中核をなしている。 このグループには,アーリー・サマーの血をひく野崎夏蒔群と、パンダゴーを中心としてアーリー・サマーやレート・フラット・タッチなどの血も混じった愛知夏蒔群とに品種分化した。 野崎夏蒔群は、外菜少なく淡緑色で、球は中球の中生種で、結球後の耐寒性は弱く、冬期温暖な地帯の夏まき年内どり品種として発展した。 この品種群には、野崎夏蒔(1937年、愛知県、野崎網次郎育成)、高師(愛知県、松浦幸四郎改良)、広夏蒔(広島県、玉木伊之吉育成)、彦島夏蒔(1953年、植田省己ら育成)などがある。 愛知夏蒔群は、外葉濃緑で耐寒性強く、球形は扁円で低温結球性にすぐれ、年内~冬どり品種として数多くの系統を作出している。 この品種群には、愛知夏蒔、泉州夏蒔(1914年、新田菊次育成)、石田夏蒔(石田辰男育成)などがある。 これらの品種群を要約すると、夏まき初秋どり用の川崎早生、年内どり用の野崎夏蒔群、冬~早春どり用の愛知夏蒔群に区別され、夏まき種として、早生、中生、晩生の品種を分化している。 現在のF1品種はこれら愛知夏蒔群を片親としたものが多い。 初夏まき種には葉深系を、晩夏まき種としては、レート・フラット・ダッチやダニッシユ・ボールヘッドなど晩抽系との交配が多く、キャベツ栽培の安定化を維進させた。」 |
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「雑誌 観光呉地誌 附録産業案内」 昭和26年9月10日発行 (P38~39) 「當町に甘藍を栽培し始めたのは不詳であるけれども、日露戦争當時(明治37年)には相當栽培され、多量に生産した農家は自ら広島市天満町市場に出荷した。 當時甘藍の調理法は非常に幼稚であって商人は之を茹でた後乾燥して販売したと云う事である。 広甘藍の前進はサクセションであるが、之は耐寒性に乏しく又輸送に於て破損の弊に流れ易く為に之が缺点を矯めるべく該当種の改良等に専念し、之を適作とし又缺点を補い、遂に努力の結晶として諟謂広甘藍を創世した頃は、大正初期にして漸く市場に於いて高評を得、之が為栽培農家は増加の一途を辿り、大新開、古新開、弥生新開と約200町歩の栽培まで発展した。 最盛期としては大正10年~14年にして、出荷量百万貫を数えて余りあった。 当時は称して広島甘藍と名附けたが、昭和の初期に至り廣甘藍と改名、県外各市場に広く出荷した。 販売の面に於ては大正の初期までは商人の手によったが、利益は商人に搾取せられ農家の利益は僅少であった。 当時老後を營農に送って居られた玉木伊之吉氏は栽培農家数百名に呼びかけて大正3年450名からなる広村園芸出荷組合を設立し販売面は云うに及ばず、生産面も非常に強固にしその成果を着々挙げた。 然るに昭和13年後間もなく戦端が開かれた為、軍事上の要衝のとして知られた廣町は、次第に放置を侵食し、且又一方主食増産上其の生産は全く振るわなくなった。 昭和21年に至っては、栽培面積は僅かに3町歩にとどまり、縣外出荷はなく往時天下に有名を馳せた廣甘藍も只地元出荷にとどまり玉木氏の設立した組合は解散した。 今回地元では往年の夢を呼び戻さんとしているが、現在の狭小は耕地を以つてしては到底其の復活は望み得ない現状にある。 縣下に於ける蔬菜の主産地として昨今漸く廣甘藍えの関心が高まり、昭和25年再び山本廣氏が出荷組合を設立し、又市の方針としても今後こうした特産蔬菜の生産を盛り返して縣外移出を目論んでいる。」 (呉市役所農林水産課提供) |
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「廣町郷土史 第2巻」 (P28~29) 「広甘藍の名に負うて全国各地に作られ或は売り出されているが、之は非常に歴史が浅いもので昭和2年頃からである。 尤もそれ以前も多少は作られていたであろう。 因みに大正2年の記録に見ると六千貫生産し反当り一千貫で僅か六反だけ作付けをやっている。 この広甘藍の名を揚げるようになった元祖とも云うべき功労者の第一人者に玉木伊之吉氏を揚げて良いであろう。」 (以下「地誌広町」記載事項に類似。記載文献の抜粋) |
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「芸備農報」 明治44年7月発行 (P12~13) 渡辺五節が「甘藍(たまな)は如何にして作るか」と題して栽培方法を示して、栽培を奨励している様子がうかがわれます。 (記事の概要を管理人がまとめたもの) |
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「芸備農報」 大正7年6月発行 (P4~5) 広村駐在の賀茂郡農業技手・辻井愛之助が以下のように記しています。 「沿革・日露戦後村内の比較的篤農家、栽培の有利を聞きて射利心を起し、形態の奇異なるを見ては好奇心に駆られ、吾こそは宇治の川の先陣を承はらんものと、或いは田地の一隅を割きて試作せしかど、覚へなき身の腹帯の知略も出でず、時に播種を逸し、時に土地の選定を誤り、時に肥培の当を失し、時に蚜虫(あぶらむし)の猛襲に遭遇する等失敗に次ぐに失策を以てせしもの実に尠(せん)少ならざりしが、絶間なき需要はこれが成功を祈りて止まず、重ねし失敗は大なる成功の基なりしが終に大正元年頃に至り本村に適応せる栽培法の研究を生み出し、甲語り乙伝えて以て今日の好成績を獲得するに至れり、然れども栽培に秘訣多きと、販路に制限の存するを以て一般広面積の栽培を許さず、昨大正六年度広村作付は僅かに三町五反にすぎざれども、一般嗜好の向上と販路を遠く下関方面に拡張しつつあるを以てこれが産額も年と共に増加の傾向を示しつつあり」 (以下、品種・栽培は略す。記載文献の抜粋) |
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「呉市経済部産業部農林水産課」 資料 昭和30年 「呉市特産広甘藍について 一、沿革 広甘藍の栽培の起源は明治中期頃にして、当初はその品質悪く市場価値が極めて低かったが、其の後生産農家多年の努力により品種の改良が行われ生産が増強し、大正の初期には漸く市場に於いて高評を得たので生産農家は激増し、最盛期の大正末期に於いてその栽培面積200有余町歩に達し生産量200万貫を越え、東京、大阪、九州は勿論、遠く大連にまで出荷した。 然るに昭和12年よりの戦争のため旧海軍により耕地が潰され、又一方主食増産の施策のため、その生産は全く振るわなくなり、昭和21年に至りては栽培面積は僅かに3町歩に止まり、往時全国に有名を馳せた広甘藍も全く火が消えた状態となった。 其の後昭和24、5年頃から、食糧事情の好転に伴ひ生産出荷組合を中心に品種改良を行う一方、増産に不断の努力を傾けた結果、昭和27年に至り、初期の目的30万貫の生産を達成し、戦後初めて京阪神に多量出荷し、その品質が高く評価され生産者の増産意欲がいよいよ昂揚したので、その後毎年10町歩の増反が行われ昭和29年に至り50町歩まで拡大された。 二、品種特性 広甘藍はサクセッション及ヴァンダーゴを大正の初期広町玉木伊之吉氏を中心に品種改良したもので、葉は濃緑で光沢が強くやや縮緬を有し葉型は倒長卵形で葉脈は外に反転し球は円形乃至腰高扁球で熟期は夏播中生系のものとしては早生の部類に属し、型は中型で「しまり」は非常によし、夏播中生としては非常に優秀な品種で収穫期は12月~3月で反当1,000貫乃至1,500貫位増産型である。 三、生産状況 昭和29年度に於ける呉市の生産状況は下記表の通りであるが、市場性の最大欠点である量的不足を打開するため昭和30年度より増産5ヶ年計画により呉市内100町歩、隣接町村100町歩を目標に増産を図る。」 (原文全文記載) |
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「郷土の誇る特産蔬菜を訪ねて」 昭和23年記 1.栽培の起源(一部抜粋) 広甘藍が発達した理由は、蔬菜の端境期を狙った点にあると思う。 その起源は比較的新しく、明治37年~38年の日露戦役当時より発足したことは、日の浅い輸入蔬菜としては無理からぬところである。 当時呉市場に甘藍の移入が次第に多くなり、それに刺激されて老農玉木伊之吉氏らは、早くもこの新進蔬菜に目をつけ、大阪の種苗商よりサクセッションとヴァンダーゴーの種子を購入して試作を志した。 ところが幼稚な栽培技術をもってしては、到底思うような成績のあがらぬ内に数年を送った。 2.広町の位置(略) 3.気候風土(略) 4.分布状況(略) 5.広甘藍の特徴(一部抜粋) 7月上旬~8月上旬まきで、12月~3月に出荷されるので、この地方の栽培に適する品種は、サクセッションでは寒害をうけやすく、また結球歩合の不良であったことから、改良の着眼点がまず耐寒性で増収性の、しかも貯蔵に耐え輸送の容易なものに重点をおかれたわけである。 広甘藍は先に述べたようにサクセッションとヴァンダーゴーの自然交雑後代より選抜したもので、葉は濃緑で光沢が強く、ややちりめん状で、葉形は倒長卵形、球は円形~腰高偏平で、熟期は中早生、1球の重量は500匁~1貫程度である。 6.栽培方法(一部抜粋) (イ)育苗(一部抜粋) 甘藍は暑さには強いかわりに、雨には最も弱く降雨が続いた後は必ず腐敗するものが多い。 (ロ)定植(略) (ハ)本畑(略) (ニ)肥料(略) (ホ)中耕(略) (ヘ)病害虫の防除法(略) (ト)収穫(一部抜粋) 市場に最も好まれる球の大きさは500~600匁といったところである。 反当たり収量は1000~1500貫程度。 (チ)輪作及び跡作(一部抜粋) 主として水田を利用するので稲、蔬菜を組合せて2~3年の輪作を行う。跡作としては、大部分が馬鈴薯で、その跡に稲を植え付けるのが普通である。 7.採種法 8.販路および出荷状況(一部抜粋) 最盛期における販路は大阪、神戸が大部分を占め、四国、下関、別府、朝鮮、満州の諸地域にもわたった。 当時の生産高は50万貫におよび、少ない時でも40万貫を降ることはなく、荷造りはすべて空俵につめ、1俵を8貫の梱包とし、ほとんど貨車で出荷したが、15t車に220~230俵を積載し、180~200車両を発送したものである。 出荷の最盛期は1月から2月にかけてが一番多く、年によっては3月頃が最も高値にさばけたこともあった。 9.現況 戦時中は不急作物として、その生産も制限され、現在においては自家用として栽培するていどで往年の面影はないが、今後再び旺盛な時代にかえさんとする機運は濃厚である。 (記事の一部抜粋) |
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「日本園藝撥達史(日本園藝中央會編)」 昭和18年5月20日発行(1500部) 朝倉 鑛造(P133~137) 廣島甘藍(甘藍・葱・混作)(呉鎮守府検査済) 廣島甘藍の出荷状況(呉鎮守府検査済) (4)廣島縣の甘藍 1 栽培面積竝収穫高變遷 廣県縣下に於ける甘藍の栽培面積竝収穫高變遷は第12表に示す通りである。 第12表 廣県縣下に於ける甘藍の栽培面積竝収穫高
卽ち、甘藍の栽培面積は昭和元年以来急激に増加し収穫高もまた同様急激に増加して居る。 今本縣下に於ける最主要産地賀茂郡廣村に於ける栽培面積竝収穫高の變遷を示せば第13表の通りである。 第13表 廣県縣賀茂郡廣村に於ける甘藍栽培面積竝収穫高
2 栽培地の變遷 廣県縣に於ける甘藍の主産地は大正初期以来賀茂郡廣村であって産地の移動はない。この廣村は賀茂郡の西南端に位して三方山で圍まれ、一方南は海に面し、村の西部を流れて海に注いで居る黒瀬川の冲積土からなり甘藍の栽培には恰適した所である 3 品種の變遷 明治33年賀茂郡廣村玉木伊之吉氏が東京方面よりサクセッション、 オールベターアーリー其他2、3品種を購入して試作したのが同地方に於ての甘藍栽培の嚆矢とされて居る、此等の品種中サクセッションは最も良好であることを認め、サクセッション種を用ひて母本淘汰を厳密に行ひ、耐寒性強く結球完全な1系統を選出して廣甘藍の名稱を付けて一般の栽培に供し今日に及んで居る。 4 栽培法の變遷 a.賀茂郡廣村地方に於ける甘藍の栽培は水稻との組合せに依って、隔年栽培を行って居る。 b.昭和初年頃までは大球の賣行き良好であったが近年は大球より500~700匁程度の中球物を歡迎するようになった結果、従来の畦幅4尺5寸、株間1尺8寸の2條植であったのを現在畦幅4尺2寸、株間1尺5寸の2條植にして反當栽培株數約3,420株を標準として居る。 c.昭和の初め頃までは12月上旬に収穫しようと思う場合には六月上旬に播種する必要があったが、現在の品種が見出されてからは7月上旬~7月下旬が播種適期となった。 d.昭和の初め頃までは害虫も比較的少く、藥劑撒布も殆んど行はなかったが、昭和2、3年頃かより青虫駆除の爲め砒素剤、デリス剤等を使用する様になった。 5 販賣法の變遷 a.明治30年代には海軍に納入した程度で一般には未だ認識が尠なかった。 b.大正時代となってやうやく一般に普及したが栽培面積少く生産品は地方的に處理せられて居た。 c.昭和6、7年頃までは大阪市場に共同出荷して居つたが、昭和7年共同出荷組合が設立されてからは東京市場中心に出荷せられる様になった。 d.出荷時期は12月上旬から翌春4月下旬までに決められて居る。 6 以上變遷の動機 a.栽培面積竝収穫高變遷 地理的闤係から古くより甘藍の栽培が行はれてゐた。水稻との隔年栽培であって甘藍の表作には胡瓜が作られて居るので甘藍には殆ど肥料を用ひず最も有利な作物とされて居る。其後優良品種の育成及び販賣組織の整備強化とに依って栽培面積が急激に増加して居る。 b.品種の變遷 最初栽培せられたサクセッションは當地方に於て割合良好な結果を示して居たが、冬期寒害を蒙り易く、且つ大球に過ぎるので昭和初年に至って耐寒性強く、中球にして然もサクセッションより約1ヶ月内外早く収穫せられる廣甘藍の出現に依って、従来の品種は一掃せられたのである。 7 趨勢 賀茂郡廣村地方は約40年の栽培歴史を有し尚耕地の許す限り増大する傾向にあったが、近時諸工業の發展に依って工場敷地としての轉換多く、耕地面積の減少しつヽある事は將來之が生産に影響あるものと考えられる。 (柳本技師、山光技手擔當) (記事の一部抜粋) |