広甘藍まとめ
広甘藍(ひろかんらん)とは
甘藍(かんらん)とは、キャベツのことです。
以下は、我が家に伝わる広甘藍(ひろかんらん)の話。
広島県賀茂郡の広村(ひろむら。現在の呉市広。以下「広(ひろ)」)でキャベツ栽培が始まったのは、明治37~38年の日露戦争頃のこと。
呉の市場に球菜(たまな=甘藍=キャベツ)が出回っているのを見た玉木伊之吉が中心になって栽培を試み、在・外来種は地質に合わなかったため、大阪で種を買ってきて品種改良に努め、明治42年ついに1反(300坪)の栽培ができるようになりました。
こうして広で品種改良されたキャベツの形は、原種とは違ってやや扁平となり「広甘藍(ひろかんらん)」と呼ばれ、大正末から昭和の初めにかけては全国にその名が知られるほどになったそうです。
上記の話をもとに作成したのが、下の年表です。
資料のある事柄については、「資料等」の欄に記載しました。
玉木伊之吉と広甘藍の年表
年 | 事項 | 資料等 |
---|---|---|
明治20年 | 広の栽培統計がとられ始める。 まだキャベツの項目はない。 |
集計諸報告控 呉市史第6巻 |
明治37~38年 | 広村の奨励により、玉木伊之吉は米の裏作としての作物を考えていた。 呉の市場に作物を持って行った時にキャベツが売られているのを見て、これを広でも作れないかと思い立つ。 大阪でキャベツの種を買ってきて、品種改良を始める。 |
廣村 農協ひろしま1990 |
明治39年 | 種苗促成園設立。 | 呉市史第6巻 |
明治43年 | 初めて広の栽培統計に、キャベツの記載が登場する。 1反(300坪) 500貫(1875kg) 40円(今の価値で約80万円) 約700個と推定 |
集計諸報告控 |
明治44年 | 品評会にねぎと共にキャベツを参考出品して、謝状を送られる。 | |
大正3年 (大正8年との記述もあり) |
広園芸出荷組合設立。 ・商人の搾取から農家の利益を守るため ・大量の出荷が間に合わないので |
呉市史第6巻 観光呉地誌 |
大正11年 | 皇后陛下に広甘藍を献上。 | |
昭和5年 | 天皇陛下に広甘藍を献上。 | |
昭和12年 | 東京の青果株式会社等7社より、広甘藍の改良発達販売の功績に対して感謝状を送られる。 | |
昭和18年 | 広の蔬菜(そさい)出荷量で、初めてキャベツが1位になる。 | 集計諸報告控 |
昭和25年 | 出荷組合を再結成。 | 廣島農業 (昭和31年1月発行) |
当時の様子
- 畑を見て回り、できの良いキャベツを1箇所に集め、そこだけで種を取っていた。
- 決められた場所以外では、種を取ってはいけないことになっていた。
- 広の農家には、無料で種を配っていた。
- 種を配る予算もついていた。
- 農会で予算をつけて、野菜の品評会をたびたび行っていた。
- 農事に明るいお坊さんが、品種改良の方法や、その他のいろいろな事を教えてくれていた。
- 広園芸出荷組合は事務所等があったわけではなく、ただキャベツやその他の作物を集めて出荷するための組織だった。
- 最盛期には、家の屋根よりも高くキャベツが積み上げられていた。
広甘藍(ひろかんらん)またはキャベツの特徴
- キャベツ一般は何にでも強く、特に塩だけに強いというわけではないが、塩気のある土地でも育つ。(アブラナ科は一般的に強いそうです)
※参考資料:<「塩害対策野菜」 佐賀県庁ホームページ>
ページ中ほどの「表9-8 圃場条件における各種作物の耐塩性」では、キャベツの耐塩性は「やや弱」に分類されています。 - キャベツ一般は唯一、湿気には弱い。広では、高畝(たかうね)にしたことが良かったようです。
- キャベツ一般は寒さに強く、作りやすい。
- 広甘藍(ひろかんらん)は結球しやすく、外葉が少ないのでかさばらない。
- 広甘藍(ひろかんらん)は肉質がやわらかく、甘くておいしい。
広甘藍(ひろかんらん)の衰退
- 固定種から種を連続採取したために遺伝上の悪影響を招き、良質の種が取れなくなった。(内婚弱性。船越建明先生インタビュー参照)
- キャベツばかり続けて作ったので、病気になった。(連作障害。船越建明先生インタビュー参照)
- 安くて品質の良い他の品種が出てきた。
- 最近の野菜はおいしければ高くても売れるが、昔は重さで取引されていた。
- 戦後の洋食に合わなかった、との記述もある。