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町おこしのストーリーに疑問

取材もされていない記事に名前が使われていた

ひいおじいちゃん(玉木伊之吉 1866~1957)は生前、キャベツの品種改良や出荷組合の結成などに携わってきた人で、家には当時の賞状や写真などがたくさん残っています。
それで地元の小中学生が地域の歴史を学ぶ時間に、頼まれて資料を提供したり昔の話をしたりしたことがあったのですが、玉木家に伝わる話とはまったく異なるストーリーが町おこしに使われて、町の子ども・子育て世帯を中心に広く知れ渡っていることを、2013年11月になってから知りました。
それが<町おこしに使われていたストーリー>です。

様々な点から「このストーリーは歴史的事実ではない」と感じ(まだこの時点では主観に基づいた判断です)、ストーリーを広めている広まちづくり推進協議会に電話して問い合わせたところ、「話を聞きに行きます(玉木家を訪問する)」との回答をいただきました。
玉木家に伝わる話を聞いてくださるのだと思い、賞状や写真などの史料を用意して待っていましたが、当日お越しになった相原謙次氏(元広市民センター長・大和ミュージアム副館長)が、史料には目もくれず件のストーリーを延々と語り(いつも講演会でお話されているそうです)、しまいには「(町おこしが)盛り上がっているんですから、このままでいいですね。写真をこのまま使ってもいいですね。」とおっしゃったので、一同唖然としてしまいました。
こちらの話を聞きに来てくださり「調べてみます」と言っていただけるものと思い込んでいたので、まるで狐につままれたようでした。
ちなみにこの時、件のストーリーについて歴史的な裏付けなどのお話や資料の持参はありません。

その後、何度も問い合わせを続ける中、「広郷土史研究会の会報(第87号)に浜本美智子(玉木伊之吉の孫)の書いた記事が出ている」と知ります。
それが、「広村甘藍栽培の普及と広園芸出荷組合 祖父・玉木伊之吉の思い出(H20/09/01)」(外部リンク)という記事なのですが、これは浜本美智子が書いたものではないというだけでなく、取材もされておらず、また発行前にも後にも一度も見たことのない記事だったので、大変驚きました。
もちろん、記事の内容については浜本美智子本人の認識とは大きく異なっており、これは大変だということで、広郷土史研究会に記事の「削除願い」(外部リンク)を提出しました。
かなり動揺していたため支離滅裂になり、しかも焦って書いたためか書き間違いがありますが(「その時、私から聞いたことを私の名前で書く事、写真を使用することを了承しましたが」と書きましたが、実際は「浜本美智子」の名前で書くことは了承しておらず、「玉木ヒサコ(玉木伊之吉の後継の嫁・浜本美智子の母)」の名前で、とお願いしたことを後で思い出した)、急いで広郷土史研究会に送りました。(2014年2月)
しばらくして、広郷土史研究会から内容証明で「返答書」が来ました。 (返答書については、書きかけです)

広郷土史研究会と対話してもラチがあきそうにないので、例のストーリーを広めている広まちづくり推進協議会に事情を説明して、「ストーリーの根拠とされている記事は浜本美智子が書いたものではないし、呉市農業振興センター元職員の方からご提供いただいた資料からもストーリーの内容には疑問があるので、ストーリーを広めるのをやめて検証して欲しい」旨、何度か口頭でやり取りをしました。
その際、
「広まちづくり推進協議会は、歴史の真偽を検証する立場にない」
「仮に内容が間違っていたとしても、訂正すればまたすぐに広まりますよ」
などと言われました。 (以下、書きかけです)

登場人物について

  • 玉木 伊之吉
    広甘藍の品種改良などに携わった(1866~1957)
     
  • 玉木 ヒサコ
    玉木伊之吉の後継の嫁
     
  • 濱本 美智子
    ヒサコの次女、伊之吉の孫。ヒサコと同居していた
     
  • 玉木 冷子
    ヒサコの長女、伊之吉の孫。
     
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